あさのますみさんの『
日々猫だらけ ときどき小鳥』(ポプラ社)の発売を記念して、エッセイの一部を公開します。どうぞお楽しみください。
1 交番の子猫 前編 はこちら
2 交番の子猫 後編
でも、そこからはもう、ダメだった。
子猫が頭から離れないのだ。湯船に浸かってもベッドに入っても、気づくとさっき見た姿を繰り返し思い出してしまう。
あの子は今頃、どうしているだろう。ケージから出してもらえたかな、体についた虫は痒(かゆ)くないかな、お腹を下してたし具合が悪いのかも知れない。
サラミなんて食べて、下痢がひどくなったら体力が持たないかも。
伝達がうまくいかずに、私に連絡がくる前に保健所に連れていかれたらどうしよう──。
無数の「もしも」が、浮かんでは消えてゆく。
普段は忘れたようにすごしている、今まで味わった後悔や、いくつかの別れの記憶まで、蘇って頭の中でぐるぐる回り続ける。
ああ、なにも手につかない。
浅く眠っただけで目が覚めた私は、結局翌朝、拾得物の受付が開くという九時きっかりに、電話をかけた。
「飼い主が現れたら必ずお返ししますから、子猫を病院に連れて行ってもいいでしょうか」
断られたらどうしよう、とドキドキしながら聞くと、電話の向こうからは年配の女性の「いいんですか!」という明るい声が聞こえてきた。
「ぜひお願いします。私たちも、どうしたらいいだろうってみんなで話していたところで」
よかった。今すぐ行きますと電話を切って、急いでタクシーに飛び乗った。
やらなくちゃいけないことが、次々と思い浮かぶ。
でも、まずはあの子を病院に連れて行って、体をすみずみまで診てもらわなくては。
警察署に着くと、さっきの電話の相手と思われる女性が、すぐに対応してくれた。記入するよう差し出された書類は、きっと他に似た事例がないからだろう、もともとある見出しが線で消され、手書きで「仮預かり」と訂正してある。そこに名前や住所を書くと、やがてその人は、見覚えのあるケージを持ってきてくれた。
にー。にー。にー。にー。
元気すぎる鳴き声が、離れた場所まで聞こえてくる。ああよかった、ひとまずは無事だった。
でもきっとあの子、怖がってまた私を威嚇するだろうな。
そう思いながら覗きこんだとき、意外なことが起こった。子猫は「にー」と一声鳴いたかと思うと、ケージに体当たりするようにして、力いっぱい私の方に体を寄せてきたのだ。
必死な顔でケージにしがみついて、子猫は鳴き続ける。檻に額をこすりつけ、すきまから何度も、小さな前足をこちらに伸ばす。
どうしたんだろう。怒っているのかな、いや、ちがう。この子は明らかに、私にむかってなにかを主張している。昨日一瞬顔を見ただけの私を、覚えているんだろうか。まさか、そんなはずはない。じゃあなんだろう。ここから出せと言っているのか、ただ不満を伝えたいのか、それともよっぽどお腹がすいているのか。
その足で動物病院に連れて行き、先生の前でケージを開けた。
子猫は待ってましたとばかりに、ケージの扉が開ききるより前に、すきまに体を押し込んで外に出ようとする。ああ、やっぱり逃げたかったんだ。
そう思った次の瞬間、子猫はまっすぐ、私の胸にかけ登ってきた。
にー。にー。にー。にー。
「え?」
驚いた。え、ここ? 君はずっと、ここに来たいと鳴いていたの? 大声を出していたのは、逃げたかったからじゃないの? ポカンとする私に、子猫はぎゅうっとしがみつく。こんな小さな体のどこに、と不思議になるくらいの力で、胸のあたりから離れようとしない。
先生が笑いながら、子猫を抱き上げてくれた。
「うわあ、ずいぶん汚れてますねえ。だけど人懐っこい子だ、ほら、ゴロゴロいってる」
言われてはじめて気がついた。本当だ、この子、喉を鳴らしてる。
「見たところ生後二、三ヶ月くらいかなあ、女の子です」
ああ、性別なんて気にする余裕もなかった。そうか、女の子だったんだ。
この子は私のことを、なにも知らない。
どんな人間なのかも、自分をこれからどうするつもりなのかも。それなのにどうして、こんなに大きな声で私を呼んで、全力で体をこすりつけてくるんだろう。
まるで、ここが自分の居場所だと言うみたいに。
迷いや疑いなんて、最初からどこにも存在しないかのように。
もう一度抱かせてもらう。子猫はやっぱり胸元によじ登ってくる。
ぷうんと嫌なにおいが鼻をつく。あ、そういえばこの子おしりがすごく汚れてたっけ、それに虫があちこちついてて......そんなことが一瞬頭をよぎったけれど、まあいいや、と考えないことにした。
きゅっと抱きしめる。小さな体はほんのり温かい。
「一日入院して、病気の検査と、トリミングをした方がよさそうです。
カルテを作りますが、この子の名前はどうしましょう」
そう聞かれて、改めて子猫を見た。必死の形相で鳴き続ける、やせっぽちの白猫の女の子。
今日からはこの子に幸せなことがうんとたくさんあるように、なにか幸福感がある名前をつけてあげたい。
「じゃあ......『おもち』にします」
先生は、カルテにさらさらと名前を書き込んだ。
「浅野おもちちゃん」。
その文字を見てはじめて、ああ私たち家族になるんだ、と思った。
図書館用のバッグで遊ぶおもち。
あさのますみ:秋田県生まれ。声優・浅野真澄として活躍する。2018年『まめざらちゃん』にて第7回MOE創作絵本グランプリを受賞。著書にエッセイ『ヒヨコノアルキカタ』(絵・あずまきよひこ)『ひだまりゼリー』、絵本に「アニマルバス」シリーズなどがある。
『日々猫だらけ ときどき小鳥』
あさのますみ
定価:本体1500円(税別)
2月20日発売・ポプラ社
猫に甘えて暮らすのは、なんて幸せなんだろう。寝ているときにおなかの上を全力疾走されたり、お気に入りのバッグにおしっこされたり、トイレットペーパーが部屋中散乱したりするけれど、ふわふわで温かい生き物が、てらいもなく思いをぶつけてくる。ただくっつきたくて、私のところにやってくる。この時間は、まるで特別な贈り物のようだ――猫4匹&鳥2羽との出会いをはじめ、賑やかな日々を綴るエッセイ22本。写真もたっぷり入ります。
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きっと惹かれ合うものがあったのですね。ケージから出した時の出来事に心がぎゅっと掴まれました。
by 月餅 2020-02-06 07:22