あさのますみさんの『
日々猫だらけ ときどき小鳥』(ポプラ社)の発売を記念して、エッセイの一部を公開します。どうぞお楽しみください。
5 許す猫、アルク 前編 はこちら
6 許す猫、アルク 後編
アルクは、初対面の私に抱かれても嫌がるでもなく、まっすぐこちらの目を見返してくる。小さな額を指の先でそっとなでると、そのまま気持ちよさそうに目をつぶる。アルクと触れ合っているところだけが、じんわりと温かい。そういうことすべてが、なんだかとても尊く思えた。
柵で囲われたスペースで一緒に遊んでいいと言われて、彼と二人、アルクをそっと放してみた。おもちゃを見せると、トテテテ、と走り寄ってくる。まるでアルク自身がおもちゃのようだ。けれどすぐに、あれ? と思った。なんだか違和感がある。
まず、走るスピードがとても遅い。後ろ足に力が入っていないように見えるし、そもそも手も足も、他の子猫よりいくぶん短い。おしりは今にも床につきそうで、よたついて頼りなかった。思わず抱き上げると、今度は抵抗するでもなく、腕の中で丸くなる。
「あっくんは、足が弱い子かも知れません。保護したときからこうだったんです。もしこの子をお迎えするなら、成長してもちゃんと歩けるようにはならないかも、ということをご了承いただけたら」
なんてことだろう。こんなに無防備で小さな生き物が、どうやって一ヶ月半も外で命をつないできたんだろう。母猫に守られてきたのか、それとも足のせいでついていけず、一人ぼっちだったのか。ガリガリに痩せても、なぜおっとりとした性質を失わずにいられたのか。それって、すごいことなんじゃないのか。
「この子にします」
ふいに、彼が言った。それは私が、そうなったらいいな、と心の中で望んだとおりの言葉だった。
歩けるように願いを込めて、正式な名前は「アルク」、呼び名はそのまま「あっくん」となった。願いが通じたのか、検査の結果、アルクの足に大きな異常は見つからず、俊敏とは言えないものの、やがて普通の猫と同じように、歩いたり走ったりできるようになっていった。
高さがある場所から飛び降りるときは、きっとアルクなりに踏ん張るのだろう、着地と同時に必ず「みゅっ」と声が出てしまう。彼はそれを「あっくんはお腹に笛が入った特別な猫」と言った。アルクはすぐに、大切な家族の一員になった。
初対面の印象どおり、アルクは常に鷹揚で、一言で言うと「許す」ことに長けた猫だった。例えばふいに抱きしめても、柔らかなピンク色のお腹に顔をうずめても、いたずら心を起こして、わざと頭の毛を逆立てるようになでてみても、アルクは決して怒らず、体の力を抜いて、されるがままになっている。
リラックスしているとき、うにゃうにゃ、ふごふごと独り言を言うのが癖で、穏やかな顔でうにゃうにゃ言いながら、大抵のことを許して、受け入れる。そういう姿勢に、私はいつも胸をうたれてしまう。
アルクが二歳になったとき、今度はシマが、生後一ヶ月でもらわれてきた。彼から連絡を受けて様子を見に行き、驚いた。まだたった数日しか一緒にいないのに、アルクはすっかりシマを受け入れ、「お兄ちゃん」の顔になっていたのだ。
初対面のアルクとシマ。
小さなシマが容赦なく体によじ登っても、まだ手加減を知らない前足で、アルクの顔面に猫パンチを食らわせても、まったく動じず、唸りもせず、ひたすらシマを許す。それどころか、シマが遊ぶのに付き合ったり、全身を丁寧に舐めて、毛づくろいまでしてやっている。相手が自分よりも小さく弱い存在なのだと、ちゃんと分かって力加減している。
なんて優しいお兄ちゃんなの、と抱き上げて驚いた。アルクのピンク色のお腹に、明らかに子猫のものと思われる歯型がついて、うっすら血が滲んでいたのだ。
「あっくん! 噛まれたら、怒っていいんだよ」
言いながら、思いがけずぽろっと涙がこぼれた。どうしてこの子はこうなんだろう、どうしてこんなに、いろんなことを許してしまえるんだろう。そんな私を気にするでもなく、アルクは抱き上げられたのが嬉しかったのか、腕の中で、うにゃうにゃ、ふごふごと独り言を言うのだった。
おもちが我が家にやってきた、翌日。扉越しにたっぷりと声を聞かせたあと、私は思いきって、アルクだけを部屋に招き入れ、ケージに入れたおもちと会わせてみることにした。
通常の対面の手順からすれば、かなり早い。でも、きっとアルクならという気持ちがあった。
「あっくん、妹が増えたよ。仲良くしてね」
扉を細く開けると、アルクはするりと部屋に入り込み、奥に置かれたケージを見て、一瞬立ち止まった。でもすぐに、今度はおもちがしっかり見える位置まで移動すると、くんくんと匂いを嗅ぎはじめた。
おもちは、突然現れたアルクに驚いたらしく、しっぽを大きく膨らませ、全身を緊張させた。けれど、友好的な態度のアルクを見るとすぐに体の力を抜き、まるで真似をするように、鼻をヒクヒク動かしはじめた。
そんなおもちの前に座り込んで、アルクはしばらくじっと観察したかと思うと、やがてしっぽを回しはじめた。くるん、くるんと、まるでプロペラのように。そして二匹はケージの柵ごしに、鼻と鼻とをチュッとくっつけて、挨拶したのだった。
アルクを潤滑油のようにして、おもちは拍子抜けするくらいあっさりと、三匹の猫たちに受け入れられていった。そして二週間後、警察署から「仮預かり」と定められていた期間が終わり、正式にうちの子になった。
今、おもちを抱き上げると、頭のあたりからぷうんと、独特のにおいがすることがある。それはアルクが、もしくはちょびが、ときどきはシマが、小さな末の妹を丹念に毛づくろいした、よだれの香りなのだった。
床暖房にとろける猫たちを、まあるく並べてみた。
あさのますみ:秋田県生まれ。声優・浅野真澄として活躍する。2018年『まめざらちゃん』にて第7回MOE創作絵本グランプリを受賞。著書にエッセイ『ヒヨコノアルキカタ』(絵・あずまきよひこ)『ひだまりゼリー』、絵本に「アニマルバス」シリーズなどがある。
『日々猫だらけ ときどき小鳥』
あさのますみ
定価:本体1500円(税別)
2月20日発売・ポプラ社
猫に甘えて暮らすのは、なんて幸せなんだろう。寝ているときにおなかの上を全力疾走されたり、お気に入りのバッグにおしっこされたり、トイレットペーパーが部屋中散乱したりするけれど、ふわふわで温かい生き物が、てらいもなく思いをぶつけてくる。ただくっつきたくて、私のところにやってくる。この時間は、まるで特別な贈り物のようだ――猫4匹&鳥2羽との出会いをはじめ、賑やかな日々を綴るエッセイ22本。写真もたっぷり入ります。
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